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巨人と阪神で優勝を経験。球団記録も更新した荒れ球の名クローザーとは?

週刊ベースボールONLINE

 今オフ、巨人の山本泰寛が金銭トレードで阪神に移籍。2リーグ制となった1950年以降、ライバル関係にある巨人と阪神の両方に所属したことのある選手は、助っ人を含めるとこれで25人目となった。このうち、両方のチームで優勝に貢献する活躍を見せたのが石毛博史だ。今回は、荒れ球が魅力だった名クローザー・石毛の足跡をまとめてみた。

ドラフト外で巨人に入団



巨人でクローザーとして活躍した石毛

 石毛は甲子園出場経験はないが、その能力はプロからも注目される逸材だった。そのため、ドラフト前には複数の球団が獲得の意思を示していた。しかし、ほとんどの球団は石毛を野手として買っており、投手にこだわる石毛は野手での獲得を考えていた球団には断りを入れたという。

 ピッチャーとしてドラフトで指名されることを望んだ石毛だったが、残念ながら1988年のドラフトでは指名はされなかった。石毛は落胆するが、その夜に状況が一変。なんと巨人のスカウトだった城之内邦雄から「ドラフト外で巨人に入らないか」と連絡があったのだ。

 実はこの年の巨人は、石毛の3位指名を検討していたものの、ヒジを痛めていたことがネックとなり獲得は見送られていた。それでも、石毛の能力を高く買っていた城之内が獲得を進言したのだ。

 石毛はすでに社会人野球の強豪である住友金属鹿島の内定を得ており、石毛の両親もそちらの道へ進むことを希望していた。しかし、巨人に憧れを抱いていたこともあり、石毛は巨人入団を決断。まさかの展開で、石毛はプロの世界へと足を踏み入れるのだった。

球団記録を更新して初タイトル獲得


 プロ入りを果たした石毛は、ヒジへの負担をできる限り少なくするために、短いイニングを任されることになる。入団から数年は一軍出場がなかったが、21歳になった1991年にオープン戦で結果を残すと、初の開幕一軍を経験。4月18日の大洋戦で敗戦処理ながら一軍初登板を果たした。この年は最終的に23試合に登板して1敗1セーブ。不安定な場面も多かったが、一軍でも通用するピッチングを披露した。

 翌1992年は石毛にとって飛躍の年となった。コーチ陣から抑えに抜擢された石毛は、150キロを超えるストレートと、まるでフォークのように鋭く落ちるスライダーを武器に見事に相手打線を抑えたのだ。終わってみれば52試合に登板して5勝3敗16セーブをマーク。防御率も1.32とまさに守護神といえる活躍を見せた。

 巨人の守護神へと成長した石毛は、翌1993年に前年を上回る活躍を見せる。13年ぶりに巨人に復帰した長嶋茂雄監督は、石毛を抑えに固定。石毛もその期待に応えるように好投を続けた。最終的にこの年は48試合を投げて6勝5敗30セーブをマーク。当時の球団セーブ記録を更新し、最優秀救援投手のタイトルを獲得した。この年はセットアッパーの橋本清も活躍し、長嶋監督は盤石の勝ちパターンである2人の継投を「勝利の方程式」と称して重宝した。

巨人ファンをドキドキさせた「石毛劇場」


 翌1994年も守護神としてチームの「締め」を任された石毛は、再びリーグ最多タイの19セーブをマーク。最優秀救援投手のタイトルはセーブポイントの差で高津に譲ったが、チームのリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも好投を見せた。

 巨人の守護神として君臨した石毛だが、これだけの成績を納められた要因は球威のあるストレートや鋭い変化球だけではない。独特の「荒れ球」も、相手選手を翻弄する武器だった。もちろん、コントロールの悪さは諸刃の剣となる。石毛は突如として制球を乱す場面があり、四球で相手選手を塁に出すことも多かった。

 そのため、たとえ最優秀防御率のタイトルホルダーの登板であっても、巨人ファンはドキドキしながらその投球を見守り、相手ファンは得点のチャンスだと喜んだ。それでも石毛は幾度となくピンチを切り抜け、相手を抑え続けた。「自らピンチを招きながらもしっかりと抑える」という石毛の投球は、当時「石毛劇場」と呼ばれたほどだ。

近鉄・阪神でもリーグ優勝を経験



1997年には吉岡(右)とともに近鉄へ移籍(真ん中は佐々木監督)

 2年連続でリーグ最多セーブを記録した石毛だったが、1994年から制球を乱す場面が増加。救援に失敗することも増えてしまう。「石毛劇場」が成立しなくなったのだ。1995年も38試合に登板するも11セーブに終わり、その後は登板機会も減少。迎えた1997年1月、石井浩郎との2対1のトレードで、石毛は吉岡雄二とともに近鉄に移籍することになる。

 当初はトレードに後ろ向きだった石毛だが、すでにチームは移籍前提で話を進めていた。近鉄の佐々木恭介監督から熱い気持ちをぶつけられたこともあって、移籍を受け入れたという。ただ、近鉄での選手生活は難しいものだった。

 近鉄1年目は先発投手として起用されたが、スタミナ不足からこれまで以上にコントロールが定まらず。13試合に登板したものの、首脳陣を納得させる結果を残すことはできなかった。そのため、次の年からセットアッパーとしての起用が増えることになる。セットアッパーとしては要所を締める活躍を見せ、2001年にはリーグ優勝も経験。しかし、2002年はわずか2試合の登板に終わり、戦力外通告を受けてしまう。


2003年から3年間は阪神でプレーした

 近鉄を戦力外になった石毛は、阪神にテスト入団することになる。起用は近鉄時代と同じセットアッパーだったが、前年とは別人のような投球を披露。17試合と登板数は少なかったが、鋭い変化球でチームのリーグ優勝に貢献した。これで石毛は所属した球団すべてでリーグ優勝を経験。当時は「優勝請負人」と称された。

 しかし、阪神2年目の2004年は登板機会はわずかに2試合。ヒジの状態が悪化したこともあり、本来の投球がまったくできなくなってしまう。そのため、2005年に戦力外となり、同シーズンをもって現役を引退した。

 引退後は関西独立リーグのコーチや少年野球チームの監督を務め、2020年には巨人と地方スカウト契約を締結。現在は新たなスターの発掘に取り組んでいる。

 巨人と阪神は長くライバル関係にあるため、両球団に所属した選手は少なく、また優勝に貢献した選手となるとさらに少なくなる。今回、巨人を出て阪神の一員になった山本は、かつての荒れ球のクローザーのように巨人・阪神で優勝を経験した選手になれるのか、来季はそのプレーに注目したい。

文=中田ボンベ@dcp 写真=BBM

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