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【背番号物語】巨人「#16」“打撃の神様”の象徴が永久欠番になった運命の分かれ目?

週刊ベースボールONLINE

「背番号16をお返ししたい」



史上初の2000安打を達成するなど、“打撃の神様”と称された川上

 巨人の「16」が永久欠番に制定されたのは1965年1月18日のことだ。巨人では3番目、プロ野球では6番目の永久欠番で、漫画の世界では『巨人の星』の星飛雄馬が継承したが、現実の世界では、その65年から巨人は新たに「77」となった川上監督の下、空前絶後のV9を謳歌することになる。ちなみに、川上は58年に現役を引退したが、そのままコーチ、監督としても「16」を背負い続けていた。「16」が永久欠番となったことは、巨人だけでなく、プロ野球の歴史でも大きなエポックだったのかもしれない。

 巨人の前身、大日本東京野球倶楽部では「16」は不在。36年にプロ野球が始まり、チームが巨人になっても、まるで誰かを待っているかのように、「16」は空席のままだった。川上が熊本工から投手として巨人へ入団したのは38年、昭和13年。同期には有望な選手が多く、巨人の「3」で紹介した千葉茂や、同じ熊本工から入団した吉原正喜らと“花の13年組”と呼ばれている。

 その38年の秋から一塁手に転向。当時は2シーズン制で、それぞれ春季と秋季にリーグ戦があり、年度優勝決定戦でシーズンの覇者を決めていたが、翌39年から初めて1シーズン制に。ただ、まだ従来の名残もあり、春、夏、秋に分けて32試合ずつを行い、それぞれの勝率1位を表彰した上で、3シーズン合計96試合の通算成績で年度優勝チームを決め、同じく個人タイトルを表彰するシステム。このとき、初の首位打者に輝いたのが打率.338の川上だった。翌40年には9本塁打で初の本塁打王、その翌41年には2度目の首位打者、初の打点王で打撃2冠、MVPに。その打球スピードは圧倒的で、“弾丸ライナー”と表現されている。

 だが、42年途中に応召。プロ野球へ復帰することもなく、終戦を迎えた。戦後、故郷の熊本で農業に凝っていた川上だったが、46年シーズン途中に復帰。赤いペンキをバットに吹きつけた“赤バット”は川上のトレードマークとなり、焦土からの復興のシンボルにもなっていく。ペンキが粗悪だったことでボールに塗料がついてしまい、“赤バット”は1年しか使っていないが、セネタース(現在の日本ハム)の“青バット”大下弘が呼び込んだ戦後プロ野球のホームラン・ブームに乗り、48年には25本塁打を放って2度目の本塁打王に。ただ、「自分にホームランは合わないと思ったんで」(川上)と、すぐに従来のアベレージ狙いに打撃スタイルを戻す。

 有名な「ボールが止まって見える」感覚をつかんだのは、2リーグ制となった50年の夏だという。翌51年から隔年で3度の首位打者。56年にはプロ野球で初めて通算2000安打に到達した。だが、「問題は体力。とらえたと思った打球が弱く、守備の間を抜けなくなったり、外野フェンスの手前で失速するようになってきた。58年は打率.246。これでは巨人の四番としての給料はもらえないと、引退を申し出ました」(川上)。さらに、しばらくプロ野球から離れて外から野球を見てみたいと考えていた川上は会見で語った。

「18シーズン、ファンからかわいがってもらった背番号16を、汚さずに、ジャイアンツにお返ししたい」

61年に「16」の監督に


 もし川上の会見での発言が現実になっていたら、巨人の「16」が永久欠番になることはなかったかもしれない。もし永久欠番となった「16」が運も呼び込んだのであれば、V9もなかっただろう。星飛雄馬も違う背番号だったはずで、『巨人の星』も、いわゆる“スポ根”漫画も流行しなかったかもしれない。だが、読売新聞の社主で“巨人軍の父”正力松太郎に「勉強してこい」と言われて禅と出合い、結局そのまま「16」でコーチに就任。そして、監督となったのは61年だ。「77」で築いたV9に集大成を迎えたことは間違いないが、「16」の監督としても就任1年目の61年、そして63年と、2度のリーグ優勝、日本一へと巨人を導いている。

 ただ、巨人の「16」は川上1人ではない。川上が応召してからは欠番となった「16」だったが、戦後、川上が復帰する前に「16」を着けた選手が1人いる。戦時中の44年に入団した水野忠彦がプロ野球が再開されると「16」を着けたが、46年は出場のないまま引退。水野は44年に二塁や外野を守って9試合に出場したが、10打席で無安打に終わっている。

【巨人】背番号16の選手
川上哲治(1938~42、46~64)
水野忠彦(1946)

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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