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【背番号物語】中日「#15」“二刀流”レジェンドが残した投打の伝説、そして語り継がれる背番号の“伝説”とは?

週刊ベースボールONLINE

20勝の10年後に46本塁打



中日の永久欠番「15」を背負った西沢。投手として通算60勝、打者として通算212本塁打をマークした

 中日で最初の永久欠番は、1959年3月15日に制定された「15」。前年オフに現役を引退した西沢道夫の背番号だ。21世紀に入って投打の“二刀流”で活躍し、日本ハムからメジャーに挑戦、エンゼルスで故障もあって2019年は打者に専念して結果を残したのが大谷翔平だが、西沢も“二刀流”として知られるプレーヤー。一方、甲子園で”ハンカチ王子”としてアイドル的な人気を集めたのが現在も日本ハムでプレーを続ける斎藤佑樹だが、その半世紀ほど前に、打席に入る前に真っ白なハンカチで汗を拭く姿で人気を集めたのが西沢だった。

 西沢の名前を初めて聞いたという若いファンには、大谷のポテンシャルと斎藤の人気を兼ね備えていた選手、といえば、なんとなくイメージできるだろうか。もちろん、厳密には違う。成人男子の平均身長が160センチに満たなかったという戦前に182センチの長身。その体躯を利した投打は豪快だった。

 プロ野球で3番目に誕生して、ペナントレースが始まった1936年から参加している中日。当時のチーム名は名古屋で、その36年にテストを受けて入団したのが西沢だった。満15歳。旧制の第二日野高等小2年のときだ。80人が受けて唯一の合格者だった。ただ、さすがに1年目は練習の手伝いのみで、選手として登録されたのは翌37年。最初は投手で、16歳と4日で初登板を果たす。これは2021年が始まった時点で最年少のプロ野球記録。そして、プロ野球どころか、よほど世の中が変わらない限り更新されないであろう不滅の記録でもある。

 ただ、開花は21歳となる40年。これが早咲きなのか遅咲きなのか、現在の感覚では断言できそうもない。44試合に登板して20勝9敗、すでに慢性的なヒジ痛に苦しんでいたという。それでも、戦中の42年にはアメリカ大リーグの記録を超える延長28回、3時間47分の伝説的な激闘で大洋(戦後の大洋ホエールズとは別チーム)を相手に完投、さらに阪急(現在のオリックス)を相手にノーヒットノーランを達成している。だが、43年オフに応召して、兵役で肩も故障。もともと投手として限界を感じていた西沢は、戦後は中部日本として再出発したチームでプロ野球に復帰したが、新生チームで内紛が起き、嫌気がさしてゴールドスター(のち金星、大映となり、毎日と合併して現在のロッテに)へ移籍、一塁手へ転向する。新たな伝説の始まりだった。

 49年に中日へ復帰すると、翌50年に自己最多の46本塁打。20勝と40本塁打を超えた選手は西沢がプロ野球で唯一だ。52年には打率.353、98打点で首位打者と打点王の打撃2冠。54年には主砲として中日の初優勝、日本一に貢献して、58年までプレーした。このときの背番号が「15」。ただ、西沢は一貫して「15」だったわけではない。

“初代”首位打者が起源


 西沢が選手として登録された37年に初めて着けたのが「14」で、すぐに「5」となり、翌38年には「17」に変更。戦後の46年シーズン途中に移籍するまで背負い続けたから、投手としての西沢の背番号は「17」だ。西沢が初めて「15」を背負ったのは48年。中日へ復帰する前年のことだった。もちろん、それまで中日では別の選手が「15」を着けている。

【中日】主な背番号15の選手
中根之(1936)
吉田猪佐喜(1939~43)
西沢道夫(1949~58、63~66)

 中根之はタイトルの表彰が始まった36年の秋季に打率.376で“初代”首位打者に輝いたスイッチヒッターだったが、1年で移籍。投手で外野も守った伊藤国雄を挟んで、打線の主軸を務めた吉田猪佐喜が43年まで着けたが、戦後は欠番に。そこへ金星から西沢が「15」のまま移籍してきた形だ。西沢はコーチ、監督としても「15」を背負い、永久欠番を自らの背中で復活させている。

 ちなみに、西沢の伝説には、「15」ではない背番号にまつわる話もある。選手として登録される以前に「0」を着けていたというものだ。背番号0はメジャーのエクスポズで82年に登場し、日本では翌83年に広島の長嶋清幸が着けたのが最初。この伝説が事実だとすれば、いわば「0」の“第0号”であり、もちろん公式なものではないから、その意味でも「0」といえる。現在の常識では考えられない伝説の数々を誇る西沢。背番号の世界でも、伝説の男だ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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