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【背番号物語】落合博満「#6」三冠王3度の強打者。永久欠番ではないレジェンドの背番号

週刊ベースボールONLINE

通算本塁打は歴代6位



ロッテで1年目から背番号「6」を着けた落合

 これまで3回にわたって、古い順に沢村栄治、長嶋茂雄、王貞治と、永久欠番を紹介してきた。いずれもプロ野球の歴史に欠かせない英雄たちだが、彼らの背番号はプロ野球の永久欠番ではない。彼らは巨人ひと筋の選手たちであり、言うまでもなく巨人だけの永久欠番だ。一方で、球史に燦然と輝く結果を残しても、複数のチームを渡り歩いた選手の背番号は永久欠番にはなりにくい。そんな名選手の1人が、落合博満だろう。

 20年もの長きにわたる現役生活で通算2236試合に出場した落合は、打撃3部門で510本塁打、1564打点、打率.311という数字を残している。本塁打は歴代6位、打点は同5位、打率は4000打数を超えた選手の中では8位。プロ野球の長い歴史で誰が最強の打者か、という議論では大いに意見が分かれることだろうが、数字だけでも落合が十指に入る打者であることは間違いない。だが、永久欠番となった選手たちの中に、落合の名前はない。

【落合博満】背番号の変遷
#6(ロッテ1979~86、中日87~93)
#60(巨人94)
#6(巨人95~96)
#3(日本ハム97~98)

 1979年にロッテでキャリアをスタートさせた落合。25歳の新人で、ドラフトを前に10球団から指名の挨拶があったというが、実際に指名したのはロッテで、しかも3位だった。ただ、与えられた背番号は「6」。近年は必ずしも小さい数字の背番号を与えられない新人は期待されていないということもないが、まだ当時は小さい数字、特に1ケタの背番号は高い評価の象徴であり、1年目に大きな背番号を着けた選手は誰もが小さい背番号を目指して練習に励んだような時代。東芝府中で通算70本塁打を放ち、社会人No.1の長距離砲という評価のあった25歳のルーキーは、背番号の面では厚遇されたと言えそうだ。

 それまでのプロ野球では、「6」は内野の名手たちが印象を残してきたナンバー。落合と入れ替わるように引退した巨人の土井正三が筆頭格で、いぶし銀の印象を「6」に残した。強打者では西鉄(現在の西武)で三冠王を寸前で逃したこと4度を数える中西太がいたが、西鉄が政界までも揺るがした“黒い霧事件”の渦中で球団を譲渡、そのタイミングで中西もユニフォームを脱いだことで、「6」を栄光のナンバーにできずに終わった感もある。言い換えれば、背番号の世界だけの話だが、強打を期待された内野手の落合には、長嶋や王のように、「6」を自らの象徴にする可能性が秘められていたのだ。

 落合は82年に三冠王となり、85年からは2年連続で三冠王に。87年に移籍した中日でも、落合との交換でロッテへ移籍した4人の中に「6」の上川誠二がいたことで、新天地でも変わらず「6」を背負い続けた。

落合の後継者たち



中日、巨人(写真)でも「6」を背負った落合

 94年、落合は導入されたばかりのFA制度を使って、あこがれの長嶋監督が率いる巨人へ。ただ、その巨人には土井から「6」を継承した篠塚和典(利夫)がいた。篠塚は巨人、そして「6」ひと筋の功労者。そこで新たに落合が背負ったのは「60」だった。ただ、落合は94年いっぱいで篠塚が引退したことで、1年で「6」へ“復帰”。そのまま96年までプレーしたが、「6」を背負った落合の姿は、これで見納めとなってしまう。

 FAで西武から同じ一塁手の清原和博が加入することが濃厚になり、自由契約を志願した落合の新天地は日本ハム。その日本ハムにも、チームひと筋で内野手の田中幸雄が「6」を背負っていた。新たな背番号は長嶋のトレードマークでもある「3」。初めて6という数字がないユニフォームを着た落合の姿は新鮮ではあったが、これが選手として着けた最後の背番号となる。ちなみに、2004年に中日の監督としてグラウンドに戻ってきた落合が着けたのは「66」だった。

 もちろん、背番号が永久欠番や自身のトレードマークとなることだけに物語があるわけではない。ロッテでは初芝清を経て継承した井口資仁が「6」で監督となり、中日では井端弘和が「6」で落合監督から厚い信頼を受け、巨人では2020年に坂本勇人が「6」で通算2000安打に到達した。むしろ、次世代の選手に受け継がれ、グラウンドで躍動してこそ、背番号の物語は多彩な顔を見せながら続いていく。名選手の面影を残しながら。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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