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国賊を討伐することを志とした楠正行は決戦前に陛下のお顔を拝したいと望み涙を落とす

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明治 15年(1882 年)、その勅命を受けた元田永孚によって編纂され、宮内省より頒布されたのが『幼学綱要(ようがくこうよう)』です。戦後以降の日本では『幼学綱要』について新たに解説された書籍はほぼ存在しておらず、いまではその存在を知る者も少なくなっています。本書は、そんな日本の未来に危機感を抱いた著者が執筆した『幼學綱要(原文)河野禎史注釈』(2021 年 マーケティング出版)を現代語訳したものです。※本記事は、河野禎史氏の書籍『「幼学綱要」を読む』(幻冬舎ルネッサンス)より、一部抜粋・編集したものです。

第二章 幼学綱要を読む

【忠節(ちゅうせつ)・第二】

○国史 ⑤太平記(たいへいき)(巻第かんだい二十六・正行吉野まさつらよしのへ参まいる事こと )など(四条畷しじょうなわての戦たたかい)

【20】「楠正行(くすのきまさつら)」

南北朝時代初期(なんぼくちょうじだいしょき)の頃(ころ)のお話(はなし)です。

楠正行(くすのきまさつら)は父(ちち)の正成(まさしげ)が残(のこ)した訓戒(くんかい)を受(う)け、国賊(こくぞく)を討伐(とうばつ)することを志(こころざし)としました。

正行(まさつら)は児童(じどう)と遊(あそ)び戯(たわむ)れている時(とき)も、常(つね)に足利尊氏(あしかがたかうじ)を斬(き)る真似(まね)をします。

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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が花山(かざん)の院(いん)(京都御所きょうとごしょ)を逃(のが)れ出(で)て大和(やまと)(奈良県ならけん)に移(うつ)られました。

正行(まさつら)は従兄(いとこ)の和田正朝等(わだまさともら)と共(とも)に駆(か)け付(つ)け、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の乗(の)る車(くるま)をお守(まも)りしながら吉野(よしの)に入(い)りました。

正行(まさつら)は正四位下(しょうしいのげ)の官位(かんい)を受(う)けた後(のち)、父(ちち)の官位(かんい)を受(う)け継(つ)ぎます。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が崩御(ほうぎょ)し、後村上天皇(ごむらかみてんのう)が即位(そくい)されました。

正行(まさつら)は所属(しょぞく)の兵(へい)を出(だ)して敵軍(てきぐん)を破(やぶ)りました。尊氏(たかうじ)は心配(しんぱい)して恐(おそ)れてから配下(はいか)の高師直(こうのもろなお)と師泰(もろやす)に対(たい)して、二十の国(くに)の兵(へい)の大将(たいしょう)として攻(せ)めさせます。

正行(まさつら)は弟(おとうと)正時等(まさときら)と共(とも)に陛下(へいか)の仮宮(かりみや)に赴(おもむ)き、お願(ねが)いを申(もう)し上(あ)げました

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