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八代亜紀さんの知られざる熱愛秘話①妻子あるレコード会社幹部と…【週刊実話お宝記事発掘】

週刊実話WEB

八代亜紀さん(C)週刊実話Web

2023年12月30日に73歳で亡くなった八代亜紀さん。1971年にデビューし、2年後には『なみだ恋』で紅白歌合戦に初出場。『雨の慕情』や『舟唄』といったヒット曲を連発し、〝演歌の女王〟となるまでの彼女には「2人の男」の存在が不可欠だった。当時の八代さんの熱愛を追った『週刊実話』の記事を再構成してお届けする。【昭和57年1月7・14日号掲載】

亜紀は熊本県八代市から上京して、銀座のクラブの歌手兼ホステスになった。

当時の亜紀について、クラブのママが述懐する。

「亜紀ちゃんの日給は七千円だったはずよ。でも、(昭和)四十五年と覚えてるけど『レコード出したからキャンペーンに行く』と言って出てったまま戻らなかったわ。借金、といってもお客のツケだけど、三十万円か四十万円残したままね。まあ、お嬢さんタイプで礼儀正しく、お客の評判もよかったけど、ホステスとしては失格でした」

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このクラブには「三谷謙」という歌手もいた。のちの五木ひろしである。

「五木とは親しくしていて、あれこれ面倒をみてもらっていたんじゃないかな」(同)

これは確かで、テイチクに入社できたのも五木の紹介と、隠れた骨折りによる。

四十七年には、亜紀は『愛は死んでも』というデビュー・レコードが出せた。

でも、ほとんど売れなかった。高田馬場のアパートで自殺未遂をしたのは、それに悲観してのことだった。

まともに三食とれる経済状態ではなかった。三食を二食に減らしても、それがインスタント・ラーメンというありさまで、テイチクもサジを投げた状態で冷たかったのだ。

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