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【連載】速水健朗のこれはニュースではない:超大物同士の原作改変事件、インプットとアウトプットのずれ

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 ちなみにIBM製キーボードは、1963年の時点ではオプションとして発売されていた。といってもこれはテレックス用。つまり電信、電報に使っていたものを、コンピューターにも接続できるようにしたのだ。あくまでサブの入力機器という扱いである。

 『2001年宇宙の旅』にはIBMのインダストリアルデザイナーのエリック・ノイスが参加していた。彼は、HAL9000のインターフェースを設計する要員だった。そのキャスティングの意図は、彼が設計したIBMのセレクトリックタイプライターが未来的なデザインで、そのミッドセンチュリーモダン風のスタイルが、『2001年宇宙の旅』の映画全体のルックにふさわしいと思われたのだろう。ただし、エリック・ノイスが映画用に作成したスケッチにキューブリックは落胆する。それは、何もない部屋に人が浮かんでいるというイメージが描かれたものだった。人がコンピューターの前に立ってそれを操作するという時代は、早晩古くなるだろうとエリック・ノイスは予測したのだ。コンピューターの中「ブレインルーム」に人は入り込み、意識を使って操作する。それがエリック・ノイスが考えた未来のコンピューティング。

 キューブリックのイメージしたHALは、知能を持ち、やがて恐怖心を獲得し、反乱を起こし、乗務員たちを次々と殺していく機械である。観客がそれを怖いと思うだけの”役者”でなくてはならない。漠然とした白い部屋だとそれは描きようがない。だから彼は落胆したのだ。

 30年後の未来予測として、エリック・ノイスが本気で考えすぎたのだ。人が手で入力したりする未来なんて、テクノロジー的には逆行である。だが、現実のコンピューターは、その逆行を果たす。タイプライター由来、つまりその当時ですら100年前のテクノロジーが、メインの入力デバイスに定着する。映画のHAL音声入出力タイプ。そっちの方が未来風だった。ただ外観は赤くて丸いランプ一個だけ。機械が異常を発するときのもっとも単純な記号、警報ランプがHAL9000の外観だった。エリック・ノイスのアイデアは、HAL9000が「デイジー」を歌う中、ボーマン船長が基盤を一枚一枚剥がしていく場面で使われている。あそこは、外部記憶装置の置かれた部屋ではなく、コンピューターの体内、「ブレインルーム」のアイデアが活きた場面だ。

■ずれの部分にこそ、作品の価値が生じている

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 再び話は飛ぶが、スティーヴン・キングの小説『ミザリー』(1987年。映画1990年)は、田舎道で事故に遭い、居合わせた看護師の家に監禁された作家の話だ。看護師は、彼の小説シリーズの熱狂的なファン。作家は、そのシリーズに飽きていて、ヒロイン=ミザリーを殺してシリーズを終わらせた。それを知った看護師は、作家を薬物依存症にして閉じ込め、骨董品同然の古いタイプライターを与え、ミザリーが復活する小説を書かされる。キーの中には壊れて動かないものがある。そこを手書きで埋めながら作家は作品を書く。入力装置が混在しているという状況。ちなみに本作の出版時には、写植とタイプと手書きが混ざり合ったまま刊行された(Kindle用の電子書籍版では、それらは単に別のフォントとして表現されている。つまり退行した)。キーが欠けていることが作品上のトリックにもなっていた。

 映画『スタンド・バイ・ミー』(キングの小説版の原題は『The Body』)は、キング自身を思わせる作家がワープロ専用機を使っている場面が冒頭とラストで描かれている。物語は、この人物の回想なのだ。キングにはワープロ専用機『神々のワードプロセッサー』という短編があって、これはワープロで書いたことが現実化してしまう話だ。主人公は事故で死んだ息子を蘇らせようとする。時期としてはほぼ同時に書かれている『ペット・セメタリー』のプロットとほぼ同じ。『ペット・セメタリー』では、先住民族の聖地に埋めると命が復活するという話だった。復活の原理が、霊魂的なものなのかテクノロジーによるものなのか違えど、どちらも失われた生命が蘇るという共通点を持つ。そして、蘇った生き物は生前のままではない。よく似た別の生き物。魂はコピーされない。

 キューブリックとキングの組み合わせで映画化されたのが『シャイニング』(小説1977、小説、映画1980年)。ジャック・ニコルソンが「All work and no play makes Jack a “Dull Boy”」という一文を繰り返しタイプライターに打っていたシーンがあった。キングは、キューブリック版『シャイニング』にケチをつけた。史上最大の原作改変問題である。キングは、73年デビューで『シャイニング』は実質2作目の長編。新人作家が大御所監督に楯突いた構図である。

 キングが不満を持った箇所は、このニコルソン演じる父親がおかしくなった理由である。その解釈の違いは、タイプライターの場面で示されている。映画の『シャイニング』は、父親ははじめから小説なんて書いていなかった。はなからおかしくなっていたのだ。キングの意図は、男はホテルの亡霊たちによって破綻をきたしていく。まるで食い違う。

 キューブリックは『シャイニング』を借りて『2001年宇宙の旅』のプロットを繰り返した。静かな密室の空間を宇宙船から雪山のホテルに移し、暴走するコンピューターを、小説家志望の父親に置き換えた。静かな場所で、それは少しずつおかしくなっていく。キューブリックは、この小説をゲラの時点で読み、映画化を決めているが、端からこのプロットに『2001年宇宙の旅』をやり直す場所として目をつけたのだろう。キングはそれを察知して不満を表明した。ただ、どちらが正解ということではない。小説も映画も『シャイニング』は大傑作だ。特に映画は押しも押されぬ大傑作。

 原作と脚色の関係もコンピューターのインプットとアウトプットの関係に似ている。両者は違う言語を使っている。その中間で翻訳が行われ、そこには多かれ少なかれずれが生じる。『2001年宇宙の旅』で、未来のコンピューターのインターフェースを考えたエリック・ノイスとキューブリックとのずれ。『シャイニング』の原作者と脚色者のずれ。どれもそのずれの部分にこそ、作品の価値が生じているのだ。

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