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東京国立博物館・建立900年 特別展「中尊寺金色堂」

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もちろん今、これらの像を間近に見られるのは、中尊寺金色堂の建立が今年900年だからであって、凄惨な戦争が起こっていたり、日本国内でも大きな地震の傷痕が日々報じられるのと重なってしまっているのも、単なる偶然のはずだ。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

世界史を動かした黄金伝説の阿弥陀堂

国宝 増長天立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

奥州・平泉の中尊寺にある、全面に金箔が施された金色堂といえば、一説にはマルコ・ポーロが「東方見聞録」に書いた「黄金のジパング」伝説の元になったという説も一般常識の部類だろう。その「黄金のジパング」を夢見たコロンブスがアメリカ大陸に到達した航海に乗り出し、そうして始まった西洋文明の征服が、落としどころのない植民地侵略へと拡大した禍根と延長が、現代にも続いてしまっている。

NHKの「8K文化財」として金色堂を外部も内部も膨大な写真データでスキャンして、ヴァーチャル空間内にその全体を再構築した8K高品位画質の立体CGが、会場入り口に実物大で8K画質のまま映写されている。
8KCG:©️NHK/東京国立博物館/文化財活用センター/中尊寺 8K:©️NHK

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その意味で、実はこれほど世界史を根底から変えるきっかけになった建築物もないのかも知れない。

扉が開いた状態の金色堂の8K立体CG
8KCG:©️NHK/東京国立博物館/文化財活用センター/中尊寺 8K:©️NHK

この正方形の阿弥陀堂は、奥州藤原氏の祖・藤原清衡が平安時代後期の天治元(1124)年に造営したものだ。

中尊寺公式ウェブサイト はこちら。

奥州藤原氏は一般的な日本史理解では清衡の孫・秀衡が源義経を保護した、いわば源平合戦と鎌倉幕府の成立の時代の第三勢力という感覚になるが、そこから百年近く遡って藤原三代が東北地方に安定した統治を実現していたため、古代の国家秩序の崩壊と中世に向けた混乱の真っ只中にあった近畿の中央よりも栄えていたとさえ考えられている。

中尊寺金色堂がその豊かさの証としばしば言われるのは、あまりに有名な総金箔貼りのせいだけではない。

この時代の仏堂は内部の柱や梁に華やかな彩色を施すのが一般的で、金色堂とほぼ同じ時代で形もよく似た方形の仏堂、例えば福島県いわき市の白水阿弥陀堂(国宝)の内陣の柱や梁、天井には、極彩色で彩られていた顔料の痕跡が今でも肉眼で確認できる。

金色堂内部の8K立体CG、内部・三つある須弥壇のうち西北壇。紫檀の高覧(手すり)には金蒔絵と螺鈿の緻密な装飾が施されている。手前の扉裏と奥の壁面にも本来は金箔が押されていたが、創建当時の漆の下地塗りと確認されたため、現状保存となっている。
8KCG:©️NHK/東京国立博物館/文化財活用センター/中尊寺 8K:©️NHK

だが金色堂では、内陣の柱や須弥壇には全面に真珠貝の内側を切り取って嵌め込んだ螺鈿と金細工が施されている。しかも四天柱や高覧などの須弥壇の材木そのものがなんと紫檀、日本では産出しない香木だ。東南アジア原産で輸入するしかない木がこれだけふんだんに使われているということは、つまりそれだけ平泉は繁栄し、海外との交易(この時代なら日宋貿易)も盛んだったのだ。

藤原時代の平泉の豊かさは、たとえば中尊寺に伝来した当時の経巻の類にも見て取れる。この経箱は536合でワンセットのうち148が現存しているうちの1合なのだが、ひとつひとつが丁寧に黒漆が施され、側面に書かれた納められた経巻を表す文字が、なんとこんなところまで螺鈿だ。

国宝 漆塗螺鈿経箱 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院

膨大な数の同様の箱には、清衡が発願して書写された一切経(主要な仏典を網羅した集成で全体で5000巻に及ぶ)が納められていた。その清衡経、ないし清衡一切経は、下の写真のように紺の染料で染められた紙に、一行ずつ互い違いに金と銀で書かれていて、見返しには金で細密な仏画が描かれている。

国宝 紺地金銀字一切経のうち 優婆塞戒経巻第七 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院
この巻では銀が酸化して黒ずんでいるので見えにくいが、一行ずつ交互に金と銀で書き分けられている。金で描かれた見返しの絵は釈迦如来の説法。

国宝 紺地金銀字一切経のうち 維摩詰経巻第下 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院
清衡経、あるいは中尊寺経と呼ばれる藤原清衡の発願・寄進による経巻の多くは、戦国時代に中尊寺から持ち出され高野山や金剛寺に移された。

よくも悪くも、金色堂はこのような奥州藤原氏の繁栄と豊かさの象徴として、その一方で江戸時代・元禄期に平泉を訪れた芭蕉が「夏草や 強者どもの 夢の跡」「五月雨の 降り残してや 光堂と」(光堂とは金色堂のこと)と詠んだように、三代のあいだこれだけの栄華を誇った藤原氏が四代・泰衡が源頼朝に敗れて儚なく滅びてしまった夢の名残として、興味関心を集め続けて来た。

今日、金色堂は保護のため覆堂(鞘堂)が全体を覆うように建てられているので屋内にあり、修復で貼り直された金箔の状態も極めてよく、ガラス越しに燦然と輝く金色のお堂からほとんどの参拝者が受ける印象もまた、最初はまずなによりも光り輝く黄金=豪華、豊かさ、だろう。

金色堂模型 縮尺5分の1 昭和時代 中尊寺
なおこの模型は昭和43年の大修理の際に完成予想図的な意味で作られたものだが、この修理での調査では屋根には金箔の痕跡が確認されなかったので、実際の復元では屋根に金箔は施されなかった。

あくまでお寺なのだしそこまで俗っぽい受け取りに耽溺するのも憚られるしで、精神性を見出そうとするなら、圧倒的な黄金の輝きに現代人がまず思いつくのは「荘厳さ」かも知れない。

一方で、金色の堂の中に見える華麗で重厚な須弥壇の、柱と高覧の向こうに配置された仏像群は、いずれも国宝指定される名品であっても、遠目になんとなくしか見えなかった、注目すらしにくかったのが、正直なところだろう。

今回の展覧会はその金色堂から運び出された仏像を間近に見ることができるという極めて稀な機会になるので、平泉で金色堂を以前に見ている人はもちろん、それこそ地元で慣れ親しんで来た人たちこそ、意外な発見が大きい展覧会なのかもしれない。

国宝 天蓋 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院
仏像の上の天井に付けられる装飾で、古代インドで貴人の頭上に差し掛けられた傘に由来する。これは金色堂の中央壇・本尊阿弥陀如来坐像の上に付けられていたもの。

極楽浄土の世界はなぜ金色に輝いているのか?

国宝 阿弥陀如来坐像 勢至菩薩 立像(左) 観音菩薩立像(右) 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院
金色堂の三つある須弥壇のうち中央壇の本尊・阿弥陀如来と脇侍の観音・勢至両菩薩

中尊寺の僧侶ですら鞘堂のガラスの内側に入って金色堂の前に立つことはあっても、堂内にまで入ることはめったにない。古代の仏堂というのは内部は仏の神聖な空間で基本的に人間がそうそう立ち入る場所ではない。こと金色堂は後述する特別な理由で、安易な立ち入りが憚られる場所でもある。

特別な法要を堂内で行うにしても、須弥壇を一定の距離から仰ぎ見る位置に留まる。

国宝 礼盤 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院
仏前で法会を行う際に主催する僧侶が座る台。現在はかなり剥落しているが総黒漆仕上げで、螺鈿と金蒔絵が施されていた。側面に嵌め込まれているのは孔雀の姿を打ち出した銅板。

つまり中尊寺の僧侶ですら、こうも間近にこれらの像を見ることはまずめったになく、このような表情で、ここまでやさしげなお顔だったとは驚いた、とも言われた。

国宝 阿弥陀如来坐像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

展示されているのは金色堂の三つある須弥壇(仏堂の中で仏が安置される檀)のうち、創建と同時に最初に造られた中央壇の諸仏だ。

本尊は阿弥陀如来に勢至菩薩・観音菩薩が付き従う阿弥陀三尊だ。阿弥陀如来の手は瞑想する姿を表す定印で、左右対称を意識したポーズの勢至・観音両菩薩は外側・中尊に対し反対側にやや腰を捻り、中尊の側の腕を自然に下げ、外側の手には蓮華を持っている。

国宝 勢至菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

様式的にはやはり定朝様なのだが、ふくよかでどこか肉感的だ。横から見るとこの時代の立像は前後の幅が極端に薄くなっている場合が多いのが、この両菩薩はそこまで薄くないせいもあるのだろう。

勢至菩薩の朗らかな顔に対し、観音の方はいささか憂いを帯びているが、双方ともやはり子どもの顔を想起させる愛らしい丸顔が印象的だ。腕から垂れ下がる天衣が風になびくようにたなびいているところも折れずにしっかり残っていて、全体に軽やかな躍動感のアクセントを与えている。

国宝 観音菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色

阿弥陀如来は衆生の救済を絶対的な本願とする仏であり、とりわけ平安時代の中期以降、死後の救済(極楽往生)を約束する仏として信仰が高まった。

仏教の本来の世界観では、あらゆる生命は生まれ変わりを繰り返し(輪廻転生)、生きることの本質は苦しみで、その運命から逃れる(解脱)には釈迦のように悟りに到達するしかないと考えられていた。中尊寺本体の本尊は釈迦如来であり、藤原清衡も釈迦如来に帰依し(よって清衡経の見返しの絵は釈迦如来が多い)、俗人も功徳によって悟りに至る可能性を説いた法華経を重んじた最澄の天台宗の教えにのっとって、最澄の直弟子慈覚大師円仁の開山と伝わる中尊寺を自らの統治の中心とした平泉の関山に移し、壮大な伽藍を建立した。

国宝 紺地金銀字一切経のうち 優婆塞戒経巻第七 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院

清衡一切経もまた、一切経は仏教教学の基本文献であり、つまりは中尊寺を東北地方最高の修行と教学の場として整備する一環として書写されたのだろう。

国宝 金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅 第七幀(左)第三幀(右) 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院

現世を変えようとする信仰と来世の救済のイメージ

国宝 持国天立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

今回の展示作品にある国宝の金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅は、この経を広め、また自らも読み込んだ王が正法によって政治を行えば、国は豊かになって四天王など諸天善神たちが国を守護すると説き、国家鎮護の経典として奈良時代から重んじられて来た金光明最勝王経の文言を、極小の金泥の文字で並べて、仏塔の形を描いたものだ。

国宝 金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅 第三幀 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院

そこには奥州を京都の朝廷や院政から半ば独立した地方として統治する奥州藤原氏の豊かな財力と同時に、現世・現実世界における統治者としての民への責任と祈りを見出すこともできよう。使われている材料の高価さ以上に、気の遠くなるような緻密な作業と労力が、その祈りには込められている。

国宝 金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅 第七幀 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院
塔はすべて経文を写した細密な金泥の文字で描かれている。

清衡が晩年に建立した金色堂が阿弥陀堂であることは、いささか意味づけが違うようにも思われる。阿弥陀信仰は個人の救済、それも死後の世界の問題だ。

この展覧会のために金色堂の中央壇から東京に移された11体の仏像は阿弥陀三尊、持国天と増長天、そして六体のほぼ同じ大きさで同じポーズの地蔵菩薩の立像だ。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

一体一体で顔の表情が微妙に違い、やや前屈みだったり胸を張っていささかふんぞりかえり気味だったり、衣の表現もそれぞれ異なっているところが見飽きないが、ワンセットの「六地蔵」として見るべきものだろう。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

仏教の転生輪廻の世界観では死後に生まれ変わる先は「六道」、天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道に分かれ、慈悲と救済の菩薩である地蔵が六体というのは、それぞれの生まれ変わり先での救済を表す。

つまりこの地蔵菩薩もまた、死後の世界・来世に関わるものだ。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

金色堂自体が全面黄金で飾られているのも、決して奥州に金が産出する豊かさを誇示したり、藤原氏の財力を見せつけるためだけではなかった。

金は仏像の身体を仕上げることも仏典に由来し、悟りに到達した如来は身体から金色の光を発するという記述に寄る。須弥壇を螺鈿や金銀で飾り、用材に黒檀を用いているのも含め、すべて経典にある「七宝」に基づくものだという。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院
背後の柱は須弥壇の柱の螺鈿と金銀の装飾の図柄を模したもの

いやそうした経典・教学の知識もさることながら、金も螺鈿も反射率が高い素材であり、紫檀もまた硬質で磨くと艶が出る。まだ蝋燭もほとんど普及せず、灯りといえば菜種油に芯を差した灯明や紙燭しかなかった時代に、その弱い光でも高い反射率であたかも自ら光を発しているかのように輝くことこそ、なによりも分かりやすい救済のイメージを人々に印象づけたことだろう。

金色堂は後世に鞘堂(覆堂)の中で保護されるようになり(現在の鞘堂は防火や温度・湿度の管理も考慮して昭和43年に建てられた鉄筋コンクリート製)、芭蕉が「光堂」と詠んだ江戸時代にもすでに鞘堂もあり、金色堂自体かなり荒廃していて金箔も剥落していたので彼の想像の描写だろうが、建立当時は関山を少し上ったところの屋外にそのまま建っていて、日中は太陽を、夜も月明かりを反射して、文字通り光り輝いて見えていたはずだ。

国宝 持国天立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

国宝 増長天立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院
持国天・増長天が対になって中央壇の諸仏を守護するが、腰を強く捻って腕を思いきり振り上げる動きの激しさは、様式的に建立当時の阿弥陀三尊より数十年時代が下り、西北・西南の増築された須弥壇のための像が後代の配置換えで中央壇に置かれたと思われる。
逆に西北壇の二天王はより温和で動きが少ない造形で、建立当時の二天像なのかも知れない。

金色堂に込められた藤原清衡の祈りとは?

国宝 阿弥陀如来坐像 平安時代・12世紀
重要文化財 金箔押木棺 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

展示会場の中央いちばん奥、阿弥陀三尊の中尊・阿弥陀如来坐像の背後に、なにか金箔の貼られた平なものが置かれている。

国宝 阿弥陀如来坐像 勢至菩薩 立像(左) 観音菩薩立像(右) 平安時代・12世紀
重要文化財 金箔押木棺 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

どうも大きな櫃か箱のように見えるが、近づくと金色堂が建立された本当の理由というか、この金色の阿弥陀堂のもうひとつの重要な役割が分かる。

この金箔貼りの大きな箱のようなものは、三つの須弥壇のうち中央壇の中に納められていた藤原清衡の棺である。左右に後に増築された二つの須弥壇の中にもそれぞれ二代・基衡と三代・秀衡の遺体を納めた棺が安置され、金色堂は奥州藤原三代のいわば霊廟でもあるのだ。

(なお秀衡の須弥壇には、その息子で源頼朝に滅ぼされた四代・泰衡の首級も納められている)。

重要文化財 金箔押木棺 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

金色堂が霊廟・墓所であることをさりげなく実感させる展示プランの中で、この棺が阿弥陀如来坐像の背後にあることは、いわばこの展覧会の真の意味での肝心要なのかもしれず、また先ほど金色堂はそう安易に入堂していい場ではないと書いたのも、ここが墓所だからだ。

清衡の棺に納められていた副葬品の刀や、小さな金塊も展示されている。

重要文化財 太刀(奥)
重要文化財 金箔押木棺副葬品 刀装具類残欠(手前) 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

重要文化財 金箔押木棺副葬品 刀装具類残欠 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

重要文化財 金箔押木棺副葬品 金塊 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

仏教の元々の教えは、釈迦に倣って釈迦の遺したヒントをもとに、戒律を守り修行し瞑想を重ねることで悟りに至れば、生きることの必然としての一部である死や苦しみから解脱できるという思想だ。最澄は法華経を重んじて大乗戒=菩薩戒を説き、出自や性別などに関係なく誰もが慈悲の心を実践し仏法に尽くし功徳を積めば解脱の可能性はある、と教えた。

藤原清衡が中興させた中尊寺は、そうした仏教の教えの正統・王道を継承する寺でもあり、また清衡が東北地方を平定するにあたって犠牲になった戦没者たちを追悼する意味もあった。

だが仏教の禁忌からすると、もっとも解脱や死後の救済から縁遠い人間たちがいる。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

六道輪廻の思想では、生まれ変わる先は現世での行いに寄る。仏教の戒律で最も重要なのが殺生戒で、あらゆる命を奪うことをは厳しく戒められる。まして殺人を重ね続けた者の来世となれば、血みどろの戦いに明け暮れる修羅道か、生前の罪で気の遠くなるような歳月をひたすら罰せられて過ごす地獄道しか、普通に考えれば行く先はない。

職業的・生まれながらの社会的な役割として、その殺生戒を犯し続けることが宿命となった者たちこそが、平安時代後期に日本の歴史を動かす主役となった。

武士である。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

戦乱の時代の子としての宿命を背負った悲しみと祈りと

一昨年のNHK大河ドラマで奥州藤原氏の三代・秀衡(田中泯)も登場した『鎌倉殿の13人』では、和田義盛役の佐藤二朗が台本を受け取る度に「え?ここで殺すんですか!?」「いやいやいや、いくらなんでも殺さなくてもいいでしょう?」と驚いてばかりだった、と冗談混じりで述懐していたが、中世と武家の時代の始まりの現実は、本当にそんなものだった。

なにも頼朝の鎌倉政権だけが特別に血みどろな陰謀に満ち溢れていたわけではない。奥羽の統治者となるまでの清衡の人生もまた、生前の行いの業から修羅道に生まれ変わるしかないというより、現世からそのまま修羅道に生まれついたようなものだ。

国宝 観音菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

父・藤原経清は血筋は平安京の貴族社会の中枢・藤原北家につながるとされるとはいえ、新興の武士階級の地方豪族で、清衡がわずか7歳の時に、前九年の役(1051年〜62年)で源頼義に敗れて命を落とす。幼少とはいえ嫡子だった清衡も普通なら殺されていたはずが、母が頼義側・安倍氏側で勝った清原氏に嫁ぐことで、命だけは救われ、父を滅ぼした一族の養子として育つことになる。

だがこの清原氏がまた、いつ血みどろな内紛で分裂してもおかしくない状況で、案の定成長した清衡もそこに巻き込まれる。後三年の役(1083年〜87年)だ。対立した義兄・清原真衡の側に都から派遣された源義家がつき、敗れた清衡と父親違いの弟・清原家衡が降伏したところで、真衡が急死したため、義家の裁定で家衡と清原家の所領を分割することになった。ところが今度はその家衡が清衡の屋敷を襲撃、清衡の妻子や一族を皆殺しにしてしまう。清衡は源義家の援護を受けてこの弟・家衡を討ち取り、清原氏の所領のすべてを手にした。

この勝利に際して家名を養子先の清原から父の藤原に戻し、奥州藤原氏を興すが、これはつまり、母を同じくする弟を殺した結果でもあった。

中央の政権からは東夷と蔑視されてぞんざいに扱われ、混乱が続いた東北地方を平定し、平泉を拠点に仏国土の王道楽土を具現しようとした清衡には、このような苦しみを繰り返さないようにという思いもあったのだろう。展覧会の最初の展示品である中尊寺建立供養願文(鎌倉時代の写し)にも、そのような主旨が書かれている。

重要文化財 中尊寺建立供養願文 鎌倉時代・・嘉暦4(1329)年
藤原清衡が中尊寺を平泉に移し大伽藍を建立した際の落慶法要(平安時代・天治3年・1126年)が捧げた願文の写し。戦死者を弔い侮蔑を受けてきた奥州に仏教文化を華開かせ、平和国家の礎としたい旨が書かれている。

法華経の教えからしたら、功徳、利他業の大乗戒に則って平和と繁栄をもたらすことも清衡の思いの中にあっただろうと推測できるし、それは平泉の繁栄として一定の成功は見た。

だが晩年に至った清衡が自らの生涯を振り返った時、民に繁栄と一応は平和をもたらしたとは言っても、とてもではないが許されたり、平和の実現や寺院の造営、仏教文化への寄進でも贖うことができるレベルを超えたような重い殺生を、好むと好まざるに関わらず犯してしまったことに苛まれたであろうこともまた、想像に難くない。

しかもなんとか東北地方を平定したものの、中央の政界は院政期に入って混乱や争いが相次ぎ、地方もまたその余波から逃れられない時に、平和国家の王道楽土を恒久的に実現できたとは、清衡にはとても思えなかったであろう。

国宝 勢至菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

阿弥陀信仰がそれまでの仏教と大きく異なっているのは、どんなに重い罪を犯した者でもひたすら阿弥陀如来にすがることで救済されるかも知れない、という希望が残るところにある。鎌倉時代に入って法然の浄土宗(東京国立博物館で今年特別展「法然と極楽浄土」を開催)、そして親鸞の浄土真宗が誕生したのも、武士が殺生戒を破り続けなければ生き延びられない時代を反映してでもあった。

金色堂もまた、そのような救済の最後の希望を求める晩年の清衡の思いを反映して建てられたものであり、そして自分だけでなく多くの者たちが生き延びるためにやむを得ず罪を犯し続けるしかなかったであろう時に、その無数の罪人たちにとっても救済されるかも知れない最後の希望を絶やさぬためにこそ、極楽浄土の色である金色に輝き続けているのかも知れない。

そしてまた、わずか7歳で現世の人道にありながら、生きながらの修羅道に巻き込まれた清衡の痛みがあったからこそ、清衡の墓でもある中央壇の仏たちは、まるで童子のような顔や姿をしているのかも知れない。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

ウクライナの占領地では子ども達がロシア領に拉致されて再教育を受けたりロシア家庭に里子に出されたりしている。ちょうど父を殺した清原氏の子として育つことになった7歳の清衡のような立場に置かれたその子らは、大人になったらロシアの兵士としてウクライナと戦うのだろうか?

今、ガザ地区で生きながらの地獄ともいうべき戦争に巻き込まれた子ども達がなんとか生き延びられたとしても、心には自分達をこうも冷酷に殺した敵への怒り、清衡がまず7歳で母以外の家族を失い、長じては異母弟・家衡に妻子一族を皆殺しにされた時に感じたであろうのと同じ恨みが、必ずや残るだろう。いや昨年10月7日の攻撃自体が、一皮向けば「残虐なテロ」というより、三代に渡って屈辱と殺戮に晒され続けトラウマを抱えた少年たちが大人になった怒りの暴発に他ならない。虐げて来た側もまた、正義などどこにもないとしか思えないホロコーストを生き延びた者達を第二次大戦後に大量に移民させることで独立し、その独立と同時に戦争を始めた国家だ。この争いを宗教争いなどと冷笑するのは誤りだ。もし双方が信じる神が本当にいるのなら(そしてイスラム教もユダヤ教もキリスト教も、信仰対象は同じ神だ)、どちらもの側でも自分達に対するこのような不正義を、神がいるのなら許すはずがないのに、としか思えない様に育つしかなかった者達がいたからこそ、終わらない苦しみなのだ。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

1000年近く前の日本に生まれ、晩年に金色堂を建立した藤原秀衡もまた、同じような痛みと苦しみに幼少期から晒され、殺生の罪を背負い続けることでしか生き延びられない宿命を否応なしに背負わされた子どもだった。

釈迦、そして阿弥陀に帰依することで恨みや怒りをなんとか乗り越えたのであろう清衡が築いた平泉の平安と繁栄も、たった四代のひ孫・泰衡の代で戦乱に潰えてしまう。今日、平泉に奥州藤原氏が造り上げた仏教に基づき平和を祈った都市の遺構は「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産に登録されている。藤原時代の建造物で唯一残ったのが、金色堂だ。

芭蕉が当時はかなり傷んでいた金色堂を見て「五月雨の 降り残してや 光堂と」と詠んだことにも、その様な人の世の歴史の深い悲しみを感じとったことがあったのかも知れない。

国宝 阿弥陀如来坐像 平安時代・12世紀
重要文化財 金箔押木棺 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」
Special Exhibition Celebrating the 900th Anniversary of Its Construction
The Golden Hall of Chūson-ji Temple

会期 2024年1月23日(火)~4月14日(日)
会場 東京国立博物館 本館第5室
〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9
https://www.tnm.jp/

開館時間 午前9時30分~午後5時 ※入館は閉館の30分前まで
休館日 月曜日、2月13日(火) ※ただし、2月12日(月・休)、3月25日(月)は開館

主催 東京国立博物館、中尊寺、NHK、NHKプロモーション、 独立行政法人日本芸術文化振興会、文化庁

後援 天台宗、岩手県、平泉町

協賛 SGC、光村印刷

国宝 阿弥陀如来坐像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

観覧料金

一般 1,600円大学生 900円高校生 600円

※中学生以下、障がい者とその介護者1名は無料。入館の際に学生証、障がい者手帳等をご提示ください。※本展は事前予約不要です。混雑時は入館をお待ちいただく可能性がございます。※会期中、一部作品の展示替えを行います。※チケットの払い戻し・キャンセルはできません。購入の際はご注意ください。※営利目的でのチケットの転売は固く禁止いたします。※チケット購入はこちら https://art-ap.passes.jp/user/e/chusonji2024

公式サイト https://chusonji2024.jp/
お問い合わせ ハローダイヤル:050-5541-8600

招待券読者プレゼント

国宝 持国天立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院

下記の必要事項、をご記入の上、「中尊寺金色堂」@東京国立博物館 シネフィルチケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上2組4名様に、招待券をお送り致します。この招待券は、非売品です。
転売業者などに転売されませんようによろしくお願い致します。
☆応募先メールアドレス miramiru.next@gmail.com
★応募締め切りは2024年2月17日 日曜日 24:00
記載内容
1、氏名 
2、年齢
3、当選プレゼント送り先住所(応募者の郵便番号、電話番号、建物名、部屋番号も明記)
4、ご連絡先メールアドレス
5、記事を読んでみたい映画監督、俳優名、アーティスト名
6、読んでみたい執筆者
7、連載で、面白いと思われるもの、通読されているものの、筆者名か連載タイトルを、
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国宝 増長天立像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院
撮影:藤原敏史、主催者の特別な許可により展覧会紹介のため撮影・転載厳禁
All photos ©2024, Toshi Fujiwara, Canon EOS RP, RF50mmf1.2L, RF85mmf1.2L, RF35mmf1.8

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