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新日本プロレスVS全日本プロレス<仁義なき50年闘争史>「猪木の大構想!ソ連最強格闘軍団をプロレスに」

アサ芸プラス

 1988年8月8日、横浜文化体育館で愛弟子・藤波辰巳(現・辰爾)のIWGPヘビー級王座に挑戦したアントニオ猪木は60分時間切れに終わると、自らチャンピオンベルトを藤波の腰に巻き、防衛を称えた。

 それはエース交代の儀式のようでもあり、猪木引退を思わせるシーンだった。

 だが、猪木はすでに新たなステージに目を向けていた。9月25日の台湾・台北市立体育館で復帰すると、10月7日の後楽園ホールにおける「闘魂シリーズ」開幕戦では半年ぶりに藤波との師弟コンビを復活させて、クラッシャー・バンバン・ビガロ&スティーブ・ケーシーに快勝。

 リング上で完全復活をアピールすると同時に、シリーズ終了後の11月7日にホテルニューオータニで記者会見を開き、共産圏初のプロレス軍団としてソビエト連邦‥‥旧ソ連の格闘技軍団を89年春に招聘して日ソ全面対抗戦を行うことを発表したのである。

 ソウル五輪開催直前の9月中旬、ソ連国家体育スポーツ委員会に「格闘技の選手をプロレスラーとして日本に派遣したい」という意向があることを知った猪木は、テレビ朝日のモスクワ駐在員、日本レスリング協会を通じて確認すると、10月21日に倍賞鉄夫営業部長とマサ斎藤を先発隊としてモスクワに派遣。

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 シリーズ終了3日後の10月30日に猪木も現地入りして、11月1日にソ連国家体育スポーツ委員会の首脳部と会談。基本合意に達したことで翌2日に合意書にサインし、11月7日の発表に至った。

 当時、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ政権はペレストロイカを推進し、外貨獲得策としてサッカーやアイスホッケーの一流選手を西側スポーツ界に輸出していたが、かねがね「プロレスを通じての世界交流」を考えていた猪木にとって、ソ連格闘技軍団の導入はその第一歩になった。

 また、この年の5月に旗揚げした新生UWFが〝本物の格闘技プロレス〟としてブームになっていたが、世界選手権4度優勝のサルマン・ハシミコフ、この年のソ連選手権優勝者のビクトル・ザンギエフなど〝本物の実力者〟がゴロゴロいるソ連軍団の導入はUWFへの牽制にもなった。

 格闘技の猛者たちにプロレスを理解させるのは至難の業だが、レスリング五輪経験者のマサ斎藤、長州力、馳浩が現地入りして選手を指導。猪木も12月11日から23日に訪ソしてグルジア共和国(現ジョージア)ゴリ市におけるソ連プロレス軍団の合宿で、直接指導すると同時に日本招聘メンバーの選考を行った。

 猪木は①自分の身を守り、相手の技を美しく見せる受け身の重要性②相手にケガをさせないギリギリの技術③感性と喜怒哀楽などの表現力④ギリギリの線で戦うことができる対戦相手との信頼関係の4つを最強格闘軍団に教えたという。

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