見えない境界線が引かれた町。
生まれた時から差別の構造に組み込まれていた少年。
本作冒頭から田舎の地方都市特有の閉塞感、狭いコミュニティに依存する息苦しさが漂い、隣人と密接に関わらなければ生活を営めない、地縁を重んじる土地柄が透けてきます。
そんな環境で身内から犯罪者が出たらどうなるでしょうか?
シュウジの兄・シュウイチは高校で落ちこぼれてひきこもり、遂には連続放火事件を起こします。シュウイチの逮捕後、一家は村八分とも呼べる扱いに落とされました。
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『疾走』で徹底的に描き出されるのはシュウジを取り巻く大人たちの弱さ、狡さ、愚かさ。
父親は早々に妻子を捨て蒸発。母親はギャンブル依存に陥り、シュウジは義務教育中の身で過酷なサバイバルを要求されます。作中に登場する赤犬とは放火魔をさす隠語で、シュウジは赤犬の身内として差別され、地域社会で完全に孤立してしまいました。行政を頼ることもできません。
シュウジもまた被害者なのに、周囲はそうと見なさず迫害する。
差別に差別で報復する悪循環。
本来援助を請うべき大人たちの救いがたい矮小さや卑劣さが、絶望的な状況に拍車をかけているのは言うまでもありません。
そもそも『疾走』に出てくる大人は、シュウジの最大の理解者である神父を除いてマトモな人物がおらず、女性や子供をはじめとする弱者を、性的・経済的に搾取する象徴として描かれています。
その代表がヤクザの新田。彼がシュウジに加えた(性)暴力のエグさは正視に堪えません、覚悟を持って読まなければトラウマになります。
大人たちの怠慢と放任、地域社会に根差す偏見がシュウジの悲劇を招いたのです。
著者重松 清 出版日
「お前」とは誰か?小説では極めて珍しい二人称文体
『疾走』は小説としては極めて珍しい、二人称文体を採用しています。
些か挑戦的な試みですが、こと『疾走』において、この二人称文体は目覚ましい効果を生んでいます。
作中で「お前」と呼ばれるのはシュウジであり、私たち読者でもあります。この人物は神の視点でシュウジを見守り、案じ、たびたび問題提起を行っていました。
一人称や三人称でも感情移入はできますが、『疾走』で用いられる「お前」はシュウジと読者をイコールで結び付け、さらに密に作中人物の感情とリンクさせます。
読者は直接「お前」と呼びかけられる事で、あたかも一対一で対話しているような、告解室で懺悔しているような錯覚をきたし、シュウジの哀しみや憎しみ、絶望や孤独にシンクロするのです。
あるいは三人称よりも神の視点に近く位置付けられているかもしれません。
『疾走』における教会、ならびに聖書は重要な役割を果たします。社会に見捨てられたシュウジは、教会に足を運んで神父と対話し、聖書をめくる事で束の間の慰めを得ていました。
故に「お前」とシュウジ(=読者)に語りかける人物が、空の上から全てを見ている、全能の神と同列の存在として刷り込まれるのです。
本作が過激な性暴力を扱いながら、現代の黙示録とも評される普遍性を獲得し得たのは、この二人称文体が聖書の語り口に、もっと言えば伝道者の口上に似ているからではないでしょうか。
走り続けてどこへ行く?タイトル『疾走』にこめられた救済
『疾走』は運命に翻弄された、一人の少年の行き着く先を描いた長編です。序盤、まだ幸せだった頃のシュウジを覚えている読者は、終盤の落差に押し潰されるはず。
走ることはシュウジにとって希望でもあり、絶望でもありました。
子供の頃から走るのが好きで、陸上部でも活躍していたシュウジ。もし兄が放火魔にならなければ、そののち一家離散さえしなければ、陸上選手として大成していたかもしれません。
されど現実は上手くいかず、シュウジは終わりのない暗闇の中をひたすら走り続ける羽目になります。差別、いじめ、別離、ヤクザによる暴力と搾取、殺人……彼に降りかかる試練は大人でも耐え難く、逃げ出したくなっても責められません。
本作のタイトルは『疾走』。『逃避』でも『逃走』でもないのに注目してください。
生まれ育った土地から逃げ、自分を凌辱したヤクザを殺してまた逃げ……しかし『疾走』はシュウジを逃げる事しかできない負け犬として描かず、短い人生を走りきった少年の軌跡を、読者の心に焼き付けました。
結果的に間違った選択をし、取り返しの付かない過ちを犯したとしても、最後の最後まで自分の足で走り抜けた人間の尊厳は奪えない……。
生きることとは走り続けることかもしれません。
どんな困難が立ち塞がろうとも、絶望さえ振り切る速度で走り抜ける信念の切実さを、シュウジは教えてくれました。
著者重松 清 出版日